総毛立つ街





家でお茶を飲むのも、現実逃避かもしれないけど。



ここのところ東京は、人の住む街じゃない。

街ゆく人が正気を装っている分、余計恐ろしい。



仕事柄(主に職場の文化上の問題で、有り体に言うと大いに『空気』に依る指示により)週に2日か3日、街に出ている。テレビも殆どつけず、繁華街にも寄り道したりしないから、せめて出社時の街の様子を目に焼き付けて、世の中のバロメーター代わりにしている。



日を追うごとに、街並みは悲惨になっていく。

何度も百貨店でクラスターが出て、その近くで見慣れていた店が消えていく。なるべく外出しないでいると、店が閉店した事すら気付かない内に、建屋まで潰されて更地になってしまう。急いで帰る道すがら、そこで働いている人がどうしているか考える時間もほんの一瞬だ。



街を歩く人は、自己暗示をかけている様にすら見える。

日常だ、日常だ、これは日常なのだ、と。



ずっと買い物に行っていない方もいるのだろう、真面目そうな方の服は何となく草臥れてきている。ファッションの流行、なんてものはない。不織布マスクの供給は潤沢だけれど、頑なに布製を利用する方も根強い。


帰宅中、必ずどこかで救急車の音を耳にする。集団で飲んで騒ぐ方々からは目を背けてしまう。そんな全員の頭の上を、オリンピックを言祝ぐTOKYO2020の旗が揺らめいている。一年延期になっている間に、あの旗達はこっそり新しいものに付け替えられた。一体、街中の旗を取り替えるだけで、幾ら掛かったのだろう。


街ゆく人達は、コロナに怯えているようには見えない。

自宅で熱が出て、怯えながら寝ている人が沢山いるのに。病院はもうキャパオーバーで、疲弊して回らないのに。


「これは日常だ」と顔に貼り付けた賢しらさは、一種の現実逃避なんじゃないか、と思う。


だって、よく考えると、東京は現実逃避で出来た街だったから。ショッピング、イベント、飲食店、映画館、ライブ会場、今まで皆、今できない様々な現実逃避を薬代わりにして、日々の憂さを紛らわしていたから。

だから、東京の街がこんな風におかしくなったのは、恐らく感染者が加速度的に増えているからでは無いんじゃないか。皆、単にヤク不足なんじゃないかと思うのだ。



今、一番私をおびえさせている懸念がある。

もしかしたら、この街の人はこの期に及んで、忖度と現実逃避しかできないんじゃないか。

だとしたら。



今の日本社会で平気な顔をして過ごす人達の事も、私は芯から怖くなってしまった。この恐怖心は握ったままでいたい。疲れるけれど。

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