多少映えない日常も送らせろ

 

たまには映えるべく三年ぶり位に花を買ったが、そもそも家に花瓶がないの図。



緑茶は写真映えがしない、と写真担当のはりねずみがこぼしたので、私も何枚か写真を撮ってみた(この所の特に地味な写真は私です)。確かに、撮影物は茶葉、急須、緑茶のパッケージと湯呑み。どうしても写真は同じような構図になってしまう。素敵なティーカップに淹れられる紅茶と違って、確かに緑茶は映えない。


そこで気付いた。よく考えたら緑茶に限らず、私は別に映える日常なんて送っていないのだ、という事に。


どうあがいてもこちとら都会住みなだけの庶民。かつて映えるものはすべからく外注していた。コロナ禍で多少家の中も整えたものの、結婚祝いで頂いたおちょこを見つつ、夜のワインの飲みさしやら、ロックグラスやらをテーブルの上にほうって置いて、朝起きてスカートを慌ててアイロンするとこうである。



あーあ、と思いながら撮った。花は切りすぎた。


そもそもだ。庶民の生活なんて別にぱっとしないものなのだ。ワインを飲んだら自分でグラスを洗わないといけない。煎茶を飲んだら急須を洗わないといけない。漫画を一期読みしたら本棚にいれなければいけない。これが重なると、まあまあ疲れる。狭い部屋に住んでいるので、頑張っても別に映えるって程じゃない。そして、現在オリンピック前コロナ禍の東京、正直映えを気にしている場合じゃない。


結局今、映える生活なんて、庶民に送れる筈もないのである。そして、日常は褻であって良いはずだ。


そう思っているのにろう、何だ、この映えない事に対する結構な罪悪感は。


一旦気になってくると、多少は映える写真を撮ってみたくなるのも人間である。私も写真を撮りながら、『映え』について暫く考えてみようと思う。というか、私なりに『映え』との上手い付き合い方をみつけたい。見栄やエゴ以外の効用も、どこかに有るような気がするので。


でも、声を大にしていいたい。生活の目的は絶対に映えではない。そして、映えない=負け、ではないのだ。私は出来れば映えない日常を楽しく送りたい。SNS社会では、意外とそれが難しいのだけれど。


今週の映え・リベンジ。












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